=(6)組織の虚構を上書きする、自分の『誇りと自覚』=
<目次> ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ・国家公務員のストーリーとは ・赤木俊夫さんの『国民全体の奉仕者』としてのストーリー ・財務省のストーリーとは『権力への忠誠心』 ・忠誠心は、何のためか? ・ストーリーを書き換えるのは『誇りと自覚』 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
こんにちは。柳原孝太郎です。
国家公務員のストーリーとは
前回はMMTを引き合いに財務省のことを書きましたが、今回はその続きです。
財務省を含む、国家公務員のストーリーとは、どんなストーリーでしょうか。憲法、国家公務員法、国家公務員倫理規程に、その一端が読めますので抜粋して見ます。
(以下引用)
【憲法】
第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
② すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
(略)
【国家公務員法】
(服務の根本基準)
第九十六条 すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。
(略)
【国家公務員倫理規程】
(倫理行動規準)
第一条 職員(略)は、国家公務員としての誇りを持ち、かつ、その使命を自覚し、第一号から(略)第五号に掲げる事項をその職務に係る倫理の保持を図るために遵守すべき規準として、行動しなければならない。
一 職員は、国民全体の奉仕者であり、国民の一部に対してのみの奉仕者ではないことを自覚し(略)、常に公正な職務の執行に当たらなければならないこと。
二 職員は、常に公私の別を明らかにし、いやしくもその職務や地位を自らや自らの属する組織のための私的利益のために用いてはならないこと。
三 職員は、法律により与えられた権限の行使に当たっては、(略)国民の疑惑や不信を招くような行為をしてはならないこと。
四 職員は、職務の遂行に当たっては、公共の利益の増進を目指し、全力を挙げてこれに取り組まなければならないこと。
五 職員は、勤務時間外においても、自らの行動が公務の信用に影響を与えることを常に認識して行動しなければならないこと。
(以上引用終わり)
要約すると、国家公務員とは、
<<
国民全体の奉仕者として、公共の利益のために、全力で常に公正な職務を遂行する。
国家公務員としての誇りを持ち、その使命を自覚し、いやしくもその職務や地位を自らの私的利益のために用いてはならない。
権限の行使にあたっては、自らの行動が公務の信用に影響を与えることを常に認識し、国民の疑惑や不信を招くような行為をしてはならない。
>>
というストーリーに従うことを誓っている人達です。
国家公務員各位はこのストーリーを実際にはどの程度意識して業務に携わっているでしょうか?
前回書いた一部のMMT論者の財務省についての批判、すなわち、財務省職員は自分の出世のために財政規律重視以外のストーリーは無視し、たとえ国民を救済する可能性があるものでも議論すらしないで放置しておく、というのが事実であるならば、それは、『公共の利益のために全力で常に公正な職務を遂行』していると言えるのでしょうか。
その姿勢は、馬の骨には、『国家公務員としての誇り』を忘れ、『その使命』を無視し、『いやしくもその職務や地位を自らの私的利益のために』悪用しており、『公務の信用に影響を与え、国民の疑惑や不信を招く』行為そのものに見えるのですが、どうでしょうか。
赤木俊夫さんの『国民全体の奉仕者』というストーリー
最近の財務省関連では他にも、記憶に新しい公文書改ざん事件があります。
財務省近畿財務局職員だった赤木俊夫さんが自らの命を絶ってから、今年の6月で3年が経ちました。
赤木さんは生前、家族や同僚に
「僕の雇用主は国民なんです」
「僕は公務員として誇りを持っている」
という話をよくしていたのだそうです。
見事ですね。
見事に、憲法、国家公務員法、国家公務員倫理規程に記載されている『国民全体の奉仕者』というストーリーを、心から誠実に追い求めていたことが手に取る様にわかるコメントです。
そんな『国民全体の奉仕者』の鏡の様な赤木さんが、自ら人生を終了させる状況に追い込まれてしまいました。なぜ財務省は組織として人の命を奪う結果を招く前にそれを防ぐことができなかったのか、心が痛むと共に全く理解に苦しみます。どこの馬の骨かわからない当方でも、やり場のない怒りがこみ上げてきて、止まりません。
『国民全体の奉仕者』の鏡と言える人を虫けらのように踏みにじり、その後何事もなかったかの如く、強大な権力を保持したままそびえ立ち続ける財務省という組織。その組織としてのストーリーとは、いったいどんなものなのでしょうか?
財務省のストーリーとは『権力への忠誠心』
財務省の職員の中には、赤木さんの様に、『国民全体の奉仕者』というストーリーを心から追いかけている人は、他にはいないのでしょうか?
いえいえ、いないはずがありません。必ず、いるはずです。
日本トップの頭脳集団である財務省です、国家公務員になる時には、それぞれの志をもって、国家公務員に、財務省職員になっているに違いありません。程度の差はあれ、『国家公務員としての誇りと自覚』を持った人が、いないはずは、無いのです。
それではなぜ、公文書改ざんという、ある意味小学生でもわかる『やってはいけないこと』を、組織的にできてしまうのでしょうか?
上司に公文書改ざんしろと業務指示を受けた部下がいたとします。その部下が、国家公務員の『誇りと自覚』を維持しており、指示を受けた業務は国家公務員倫理法等法令違反なのでできない、と業務を断っていれば、上司は改ざん実務を自分ですべて実行しなければならず、現実的には実行不可能です。
しかし、実際には、業務指示を受けた部下は集団となって、公文書改ざんを実行する、ということが起こりました。いわゆる『赤木ファイル』が公開され、組織ぐるみの国家公務員倫理規程違反の実態が、ようやく明らかになってきています。
<AERAdot>「赤木ファイル」に記された抵抗の証し 最後まで上司や本省に強く反対 https://dot.asahi.com/aera/2021062800027.html?page=1 (2021.06.29) <東京新聞>決裁文書「議員に持って行くつもりない」森友問題「赤木ファイル」ににじむ財務省の「本音」 https://www.tokyo-np.co.jp/article/112159 (2021.06.23) <高知新聞>夫はなぜ死んだのか 森友問題公文書改ざん・自殺職員の妻が、高知で語った2時間 https://www.kochinews.co.jp/article/458588/ (2021.05.22)
これをどう理解したら良いでしょうか?
そこには、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の指摘する『虚構』のなせる、恐るべき人間の脳の働きが影響を与えているように思えます。
指示を受けた部下は集団で全員があっさりと『国家公務員としての誇りと自覚』を捨ててしまったのでしょうか?
いえいえ、上司に真っ向から抵抗し『赤木ファイル』を残した赤木さんのみならず、おそらく関係者一人一人は、それはもう、葛藤、自己嫌悪、悩みに悩みぬく人もいた(いる)のではないでしょうか。
濃淡の差はあるでしょうが、国家公務員になる時に『国民全体の奉仕者』になろうという志を持った人たちなのです。
ただ、結果的には、組織的に改ざんが行われています。職員一人一人、改ざんに加担した人達は、自分がいくら悩んだか否かには関係なく、国家公務員倫理法他法令違反を犯したことに他なりません。一人一人の行動の総和としての組織的な行動は、結果として、心から国民のことを思う善良な『国民全体の奉仕者』が自らの命を絶つ結果を招いています。国民にとってこんな不幸なことはありません。
この様な財務省という組織を馬の骨がBEVしてみた時、良いか悪いかは議論があるであろうことは別にして、ある一つの強烈な特徴、強固な虚構が見て取れます。
それは、ゆるぎない『権力への忠誠心』です。
財務省という組織としての絶大な権力。またその権力を誇る組織を牛耳る幹部・上司への忠誠心。そう、財務省のストーリーとは、『権力へのゆるぎない忠誠心』というストーリーである様に見えます。
それは、文書改ざんを指示した財務省幹部自身が、安倍元総理が内閣人事局で人事権を握っている上司だから忖度して行動したといわれていることからも見て取れます。財務省はトップから末端に至るまで、『権力への忠誠心』『権力を握る自分の上司に対する忠誠心』、という虚構で強固に意思統一されているように見えます。
忠誠心は、何のためか?
日本国憲法他法令で定められている国家公務員のストーリーは『国家公務員の誇りと自覚を持って』『国民全体の奉仕者』として行動することです。
『忠誠』は『国民全体』に向けて尽くされるべきものです。
それが、財務省は上から下まで、自分が本当に奉仕すべき国民を無視して、きわめて内向きな、組織内で権力を握る自分の上司に対する忠誠を尽くすことに目が眩んでいるように見えます。なぜ国民を無視して省内の自分の上司に忠誠を誓うのでしょうか?それは、残念ながらMMT論者が指摘するように、自分の出世の為、つまり自分の『私的経済的利益』のため、という理由以外に、納得感のある答えが見当たりません。
財務省職員のストーリーは、入省の経緯・考え方は人それぞれなので、人によって濃淡はあるでしょうが、『国民全体の奉仕者』でスタートしているはずです(そう信じたいです)。それが入省後激務を重ねる中で(この点は本当に頭が下がります)、財務省という強大な権力集団が長年積み重ねて構築してきた組織としての虚構に直面して、一人一人のストーリーはどんどん書き換えられていくようです。忠誠心の対象が、『国民』から自分の組織の『権力』自体に、権力を握る上司に、変質してしまっている。あるいは、『国家公務員としての誇りと自覚』が変質し、誇りと自覚をもつ根拠は『国民全体の奉仕者』であることに帰するべきところが、『権力を握る組織の一員』であること、更には『その権力組織を将来牛耳れる可能性をもつ位置にいること』に変質してしまっているように見えます。
そこには、『権力』という目の前の木にしがみつき他を見ようとせず、BEVして国民が存在する森全体を見ることは拒否し、自律思考を停止させた、『権力』自体を求めるだけの日本最高の頭脳マシーンの集団が見て取れます。
日本最高の頭脳が集まっているはずなのに、なぜこのような『権力』を求めるだけのマシーンになってしまうのでしょうか。
入省する職員は皆、難関の国家試験をパスした優秀で頭の柔らかい若手であるのは間違いないはずです。それが、時間が経過し自分自身が経歴を積み重ねて、自分の出世を意識しだすと、気が付いたら、組織のどす黒い『権力を求めて競争する』虚構に染まり、後輩若手官僚の新鮮で無垢なストーリーをどす黒い虚構で上書きする張本人になっていくのでしょう。そのようにして、財務省は組織全体として、強固で統一された虚構を盤石なものにしていく様に見えます。
本当はここまでは書きたくはないのですが、馬の骨が社会にある集団を、暴力団だからだめ、官僚だから良い、と言う固定観念はとりあえず横に置いて、その集団が、どういうストーリーを信じてどういう行動をしているのか、という観点でBEVして見たとき、へぇ~、と思ったことがあります。
政府が定義する『反社会的勢力』とは、
『暴力や威力、または詐欺的手法を駆使した不当な要求行為により経済的利益を追求する集団又は個人』
ということになっています。
『自身の組織内の出世という私的経済的利益のために、国民全体の奉仕者という自身の責務を放棄し、国民を救済できるかもしれないMMT論の議論を避け、あたかも財政規律の重視が国民のためであるかの様に国民を欺き、財政規律重視に固執』
している財務省は、馬の骨には、
『詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求している集団』
のように見えます。
また、
『自分の組織内の出世という私的経済的利益のために、国家公務員としての誇りと自覚を捨て、明らかに国民の疑惑や不信を招く詐欺的行為である公文書の改ざん』
をしている財務省は、これも馬の骨には、
『詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求している集団』
にしか見えません。
つまり馬の骨には、財務省の集団としての行動と追いかけているストーリーは、政府が定義する『反社会的勢力』のカテゴリーに含まれているように見えてしまうのです。
ストーリーを書き換えるのは、『誇りと自覚』
財務省の中には、例えば、
「いや自分は大学の就職活動の時に外資系コンサル内定もらったんだけど、国家公務員試験楽勝で受かったので、とりあえず公務員になって、偉くなってから退官して民間に出向に出た方が、トータルとしてはがっぽり人生得なのでとりあえず財務省行っとこう」
という人がいるのかもしれません。先日起こった耳を疑うような国家公務員の質の低下を表す事件、経産省キャリアの新型コロナ下での家賃支援給付金詐欺事件などを見ていても、残念ながら、入省の時から、『国民全体の奉仕者』になれるという『誇りと自覚』をもつことは自分のストーリーには1ミリも含まれない人達が官僚組織に存在していることは間違い無いようです。
それがその人のストーリーなら、例えば財務省に入省したら、自分が出世する為に、MMTは無視するでしょう、財務省内でMMT主張しても決して偉くなれないらしいですから(これまでは)。
また自分を偉くしてくれそうな上司から公文書改ざんしろと言われたら、何の疑問も持たずに、はいはい、と公文書を改ざんするのでしょう。
そういう行動は、その人が入省する時から想定していた、『出世して偉くなって、のちに民間に出て経済的利益を最大化させる』というその人の人生のストーリーに沿ったものです。
ただ、これは、本来の国家公務員のストーリーとは別物です。国民が思う国家公務員のストーリーとはかけ離れています。憲法第15条には、『公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。』とあります。国民が思う公務員のストーリーとは別のストーリーを追っている人は、国民の権利として直ちに公務員を辞めて欲しいと思います。
国家公務員は入省するときに、濃淡の差はあるでしょうが、必ず『国家公務員としての誇りと自覚』をもって『国民全体の奉仕者』になるという志を持っているはずです(そう信じたい)。これがあるからこそ、馬の骨の我々国民は、激務にまい進する国家公務員を尊敬もするし、税金も払うし、安心して生活ができるというものです。
ところが、残念ながら、最近の財務省、他にも上記の経産省、コロナ関連対応の厚労省など、枚挙にいとまがないですが、国家公務員を尊敬して安心して生活できる、という状況ではありません。
『国民全体の奉仕者』でいられることで『国家公務員としての誇りと自覚』を抱いたことがほんの少しでもある財務省職員は、現在の財務省組織の国民不在のストーリーに、何か違和感を覚えないのでしょうか。
赤木さんが生前よく言っていたという「僕の雇用主は国民」というコメントは、しっかり財務省という組織にいる自分をBEVして、国民が存在する森全体の中での財務省、そこで働く自分を把握して、自らがすべきこと、してはならないこと、それらをしっかり自律思考で整理して認識されているのがよくわかります。そんな赤木さんが自らの命を絶たれたのは本当に悔やまれます。第三者の馬の骨が人命が失われたことについて何かコメントをするのは勇気がいることですが、馬の骨が勝手なこと言うな、とお叱りをうけることを覚悟して言うと、赤木さんが自らの人生を自ら終わりにしたのは、明確に『国家公務員の誇りと自覚』があったからであると思います。
財務省職員は、財務省にいる自分のことを、BEVできているでしょうか。
赤木さんが自らの命を絶った、『国家公務員としての誇りと自覚』、理解できるでしょうか。
自分も赤木さんと同じ『誇りと自覚』を持って行動すべき立場であることが認識できているでしょうか。
認識できていないなら、認識できない自分が恥ずかしくないでしょうか。
認識して行動しないなら、行動しない自分が恥ずかしくないでしょうか。
『国民全体の奉仕者』も、『権力への忠誠心』も、『国家公務員としての誇りと自覚』も、『公文書改ざんを平気ではいはい請け負う』も、すべて、人間が頭の中の脳の働きで創出した虚構/ストーリー、つまり、作り物です。
作り物なので、作り替えられます。作り替えて良いのです。何を信じるかは自律思考で自分で決める。自分が信じるストーリーは自分で作ればよい。
自分が入省した時に意識した『国家公務員としての誇りと自覚』が残っていて、今自分がいる組織が組織として追いかけているストーリーに違和感があるとしたら、『誇りと自覚』から紡ぎ出されるストーリーに書き換えても良いのです。『誇りと自覚』があれば、必ず、書き換えることができます。元々日本最高の頭脳集団なのですから。
もしストーリーを書き換えたいと思うのが自分だけではないとしたら、そのストーリーを信じる人を増やして協力して集団を形成することです。そうして今まで組織の虚構で上書きされた自分たちのストーリーは、今度は『誇りと自覚』を感じる自分たち仲間が作った新たなストーリーで、組織の虚構を上書きしていけばよいのです。
ある意味、簡単なことに見えます。なぜなら、憲法に、国家公務員法に、国家公務員倫理規定に書いてあるからです。書いてあることをやればよい、それだけです。
人間社会、様々な集団があって、そこに属する様々な人がいます。集団には集団のストーリーがありますが、結局、その集団に属する一人一人が何を信じるのか、何を正しいと思うのか、自分はどんなストーリーに人生をかけるのか、がまずありきです。集団のストーリーはそこからすべて始まります。
せっかく人間に生まれてきて、ハラリ氏が教えてくれる、人間だけがもつ特殊な能力、考える力、ストーリーを構築する能力を授かりました。
いつか自分が人生を終えるとき、誰でもBEVして、自分の歩いてきたストーリーを振り返ることになります。そのとき、悔いのないストーリーを歩いてきた、と納得して、安らかな気持ちで終わりにしたいものです。
それでは。
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