『REVOLUTION+1』が呼び起こす『倫理観』VS『嫌悪感』
(47)目次 ・『REVOLUTION+1』を巡る議論 ・『元日本赤軍の映画監督』のイメージが生む感情的ざわつき ・呼び起こされる『倫理観』と『嫌悪感』 ・どちらか?、ではなく、どちらも受け入れる
こんにちは。柳原孝太郎です。
安倍元総理の国葬が世論を二分する議論の中で執り行われた後、旧統一教会と政治の問題、五輪汚職の問題など、自民党政権を揺るがす事件の実態が日を追うごとに更に明らかになってきています。
そんな中で、安倍元総理銃撃事件の山上容疑者を題材にした映画『REVOLUTION+1』の特別版が公開され、毀誉褒貶様々な議論を巻き起こしています。
日本経済新聞 2022年9月30日 5:00 [有料会員限定] 足立正生監督「REVOLUTION+1」未完成版を緊急上映 古賀 重樹 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD280U60Y2A920C2000000/
サンスポ 2022/09/26 18:30 山上容疑者の映画「REVOLUTION+1」上映中止 鹿児島市の映画館、抗議受け判断 https://www.sanspo.com/article/20220926-O3KHVXR2E5J2BPECX7ZE5BRQZA/
『REVOLUTION+1』を巡る議論
まず断っておきたいのは、当方は未だこの映画は見ていません。映画自体を見ていないので映画の内容について何か当方の感想を述べるようなことはできないのですが、この記事を書こうと思ったのは、山上の映画が国葬前日に封切り、当日に各地で上映という挑戦的な形で世の中に出てきたことで、当方自身、心の中で得体のしれないざわつきを感じたからです。
山上の映画を国葬に合わせて公開する動きには、当然ながら国葬賛成派、安倍元総理シンパからは、非常識だ、テロを許すのか、等の激しい世論が巻き起こります。その結果、上述サンスポの記事の様に、映画公開を中止する動きもみられました。
一方、旧統一教会と政治のつながり、特に自民党との癒着を問題視する世論は、言論の自由、芸術表現の自由、などから映画の公開を批判すること自体を問題視する意見が数多だされています。
ひとつ注目したのは、ともすると経団連と一蓮托生、経団連が支援する自民党を擁護する立場に見える日経新聞が、上述の記事の中で、「映画は川上の心情に寄り添いつつも、英雄視はしていない。」との、元総理銃撃の容疑者を主人公にした事件の映画化をテロの肯定だとして非常識とする世論とは一線を画して、距離を置くコメントを掲載していることです。
そんなその後の関連情報に接しながら、映画を見る前の状態での、最初にこのニュースを聞いた時の心のざわつきは何だったのだろうと考えるようになりました。
・『元日本赤軍の映画監督』のイメージが生む感情的ざわつき
ざわつきの原因のひとつは、『元日本赤軍の映画監督』という情報でした。
ルーフトップ 古今東西ポップカルチャー最前線 2022.09.15 日本が誇る稀代のシュールレアリスト・足立正生監督の最新作『REVOLUTION+1』、描くは安倍晋三元首相暗殺犯の山上徹也容疑者! https://rooftop1976.com/news/2022/09/15160000.php
JIJI.COM 10/8(土) 13:34配信 安倍氏銃撃事件モデルの映画が物議 監督は元赤軍メンバー 識者「慎重さ必要」 https://news.yahoo.co.jp/articles/04e25231c48a331a79fddad2796cd98705aff57d
産経新聞 10/8(土) 19:01配信 現金や食料…大量の差し入れ 山上容疑者支持の動きに専門家警鐘 https://news.yahoo.co.jp/articles/9b8beb471fbd08ff05c1a3fe48a6f4f7ba80f3e5
金銭目的のために弱者をマインドコントロールにより支配して搾取する反社会的集団としか言えない旧統一教会とつながっていたとの情報が明らかになっている安倍元総理一派・自民党には、嫌悪感しか感じなくなっていますが、とは言え、人に命を奪われることは決してあってはならないと思います。山上容疑者は過去の経緯があったとは言え、計画的に殺人を犯した行為は厳罰に処されるべきものと思います。そんな中で、山上容疑者に同情・支援する人の行動が報道されていますが( 上述産経新聞等)、正直、これは度を過ぎており、いくら過去の経緯があったとは言え、殺人容疑者の行動を正当化するような動きは、倫理観から拒否反応を覚えます。
更に、『REVOLITION+1』の足立正生監督が元日本赤軍メンバー、という肩書が、その倫理観からの拒否反応を強いものにしている様に感じます。山上容疑者はテロリストか、否か、という両極からの議論も見られますが、テロリストの定義は横に置くとしても、計画殺人である事実は動かしようがなく、それを映画化しているのが、過去にテルアビブ銃乱射事件で無差別殺人を実行しているテロリスト集団の日本赤軍のメンバーだった人、という情報には、当方も心のざわつき、そりゃあかんやろ、という拒否反応を覚えてしまったわけです。
繰り返しですが、当方はまだこの映画を見ていませんし、足立監督の人となりも情報不足なのですが(見てない、知らないのに何かを語るなボケ、と言われても反論できません、すみません)、安倍元総理銃撃事件、山上容疑者、山上容疑者と母親、母親と旧統一教会、旧統一教会と安倍元総理・自民党、宗教と政治、宗教と表現の自由、信教の自由と政治、政党と選挙、テロリストと計画殺人、犯罪と映画・芸術作品、犯罪と表現の自由、などなど、俯瞰してみると同じサークルの中に様々な事象が入ってきてしまいとても複雑で、そこから湧き出る自分の感情も様々に入り組んでいるこの状態はなんなのだろう、と思ったのがこの記事を書くきっかけになっています。一部繰り返しになりますが、日経新聞の上述記事で古賀重樹氏は以下の様に語っています。
『そのように映画は川上の心情に寄り添いつつも、英雄視はしていない。事件後に別の方法で世界と対峙しようとする人物の姿も描き、観客に問いを投げかける。』
映画の中身が山上容疑者を英雄視するのではなく観客に問いを投げかけるもの、であるなら、それは上記のような俯瞰して同じサークルに入ってきてしまう様々な事象をあなたはどう考えるのか、という当方が今回の記事を書いている動機と重なるもの、と言えます。『REVOLUTION+1』は、時を改めて冷静に見てみたいです。
呼び起こされる『倫理観』と『嫌悪感』
今回の当方の心のざわつきは何なのだろう、と色々思いを巡らせてみたのですが、要すれば、複数の『倫理観』と『嫌悪感』が錯綜しているからと思えます。
弱者の弱みにつけこんてマインドコントロールにより支配して金銭目的のために搾取する反社会的集団としか思えない旧統一教会と、それを利用して自らの政治的立場の強化に利用していた自民党には、『嫌悪感』しか覚えません。弱者を踏み台にして、自らが沈まない様にする、あるいは強欲に溺れる、最低の人たちの集団に見えます。その犠牲者となっている人たちの延長線上に、山上容疑者は明らかに存在しています。当方が嫌悪感を覚える最低の人たちの犠牲になっている人たちなので、心底同情もするし、応援したい。ただ、結果としての行動が、計画殺人となると話は別、これはとても肯定はできません。拒否反応が起きるのは、言ってみれば『倫理観』から許容できないものであるからと言えます。
旧統一教会の反社会的な行動を嫌悪する感情を、山上の件については計画殺人は許されないという倫理観が押さえつけているために、ふたつの相反する感情が錯綜、ぶつかっているために起こっているざわつきである様に思えます。このざわつきはどうしたらよいのか? ざわつきを抑えるために自分なりの結論を出して片方に肩入れすべきなのか?その方が精神的に楽になるのか?考えれば考える程、ざわつきは収まるところを知りません。はて、どうしたものか。
どちらか?、ではなく、どちらも受け入れる
旧統一教会の反社会的行為に対する嫌悪感は、人としてしてはならないことを旧統一教会はしている、それはしてはならないことだという倫理観から湧き上がってきます。旧統一教会の反社会的行為に倫理観から嫌悪感を覚え、旧統一教会に抵抗するために元総理を銃撃した人を英雄扱いすることには、倫理観から抵抗感を覚える。これらの相反する嫌悪感、抵抗感などの感情は、すべて倫理観から湧き上がっているものと感じます。どちらも倫理観、正義感を起点としているため、当然と言えば当然なのですが、どちらかに肩入れするというわけにはいきません。どちらかに肩入れをすれば、逆側の倫理観は否定されますが、倫理観を否定してしまうと、それは罪悪感に形を変えてまた心の中にさざ波が巻き起こることになります。
結局、どちらかに肩入れをすることに決める話ではありません、当たり前なのですが。当方の倫理観VS嫌悪感の心のざわつきは、収める類の話ではなく、ざわついていることをそのまま受け入れる類の話と思う様になりました。
山上容疑者は計画的殺人を犯しており、これは厳罰に処さないと、似たような犯罪があちこちで起こりかねず、重大な社会不安を引き起こすという意見には当方も賛同します。ただ一方で、客観的な事実として、山上容疑者が安倍元総理銃撃死亡事件を起こしたことをきっかけに、旧統一教会と政治権力の癒着の実態が社会の表舞台に登場し、反社会的な行為・その行為をする集団を是正する動きが出てきており、これは健全な社会のためにはプラスの効果があると思えます。
計画殺人犯を英雄扱いすることなく厳正に法的に裁くことと、旧統一教会の反社会的行為を許さない法的枠組みをしっかり作ること、これは同時並行でどちらもしっかり進めるべきものと思います。
『REVOLUTION+1』の上映を取りやめた鹿児島市の映画館は、「テロを容認するのか」といったクレームを複数受けたために中止の判断をしたとのことですが、もしこれが記事には出ていない何か脅迫めいた具体的な脅威にさらされていたのが背景にあるとするならば、とても残念です。「テロを容認するのか」と言って脅す言論封殺・表現の自由への挑戦、それこそテロであるように見えます。そのような脅迫などの具体的な理由もなく、「忖度」で上映中止にしているとするならば、ならばなぜ、山上容疑者を題材にした映画を上映しようとしたのか、という話です。映画館という表現の自由、言論の自由の総本山のひとつであるべき存在としては、残念な話です。
そう考えてみると、上述の日経新聞、ともすると経団連より、自民党よりの行動をすると思われているメディアが、ニュートラルに映画の紹介、足立監督のメッセージを伝え、まさに読者に問いを投げかける形で記事にしているのは、へえ~、日経新聞がね~、やるじゃん、と当方は思った次第です。
現在公開中のものは時間短縮の特別版で、今後フルバージョンの上映が予定されているという『REVOLUTION+1』ですが、当方もフルバージョンで見て、心がどうざわつくのか、感じてみようと思っています。
それでは。