=「皇室がダメージを受ける」と言う人が守りたいもの=
(29)目次 ・ 皇室メンバーの言動で「皇室がダメージを受ける」という報道 ・ 誰にとっての「ダメージ」なのか ・ 『皇室』も『国家』『宗教』『貨幣』と同じ『虚構』 ・ 自らコントロールできない出自 ・ 皇族は失敗してはいけないのか
こんにちは。柳原孝太郎です。
皇室メンバーの言動で「皇室がダメージを受ける」という報道
眞子さまの結婚問題がメディアを賑わせる皇室ですが、今度は佳子さまが日本でのガールスカウト運動100周年を記念する行事「国際ガールズメッセ」に寄せた動画の中で、日本の「ジェンダーギャップ指数」が156カ国中120位だったことを「とても残念」と述べられたことが、皇室には許されない政治的な発言だとして一部のメディアが苦言を呈する事態になっています。
JB Press 眞子様のご結婚批判をヘイトスピーチ扱いする日本の表現の自由 政治的発言で一線を越えられた佳子様と「法遵守の文化」の未来 2021.10.12(火) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67278
眞子さまのご結婚については、皇室の人権を一切無視したメディアの報じ方に一貫して疑問を呈してきましがが、今回の佳子さまのジェンダー発言を政治的だと批判するメディアが出てくるのを見るにつけ、やはり皇室の存在自体を議論したい勢力が、皇室メンバーが何をしてもその一挙手一投足を自説の主張にこじつけて利用してくる状況を改めて認識できると思うのです。
ジェンダー問題についての日本の意識の低さは、佳子さまだけが個別に指摘しているものではなく、日本全体の問題として政治・マスコミも取り上げているものです。天皇陛下が福島の被災者の復興を願うとコメントを発せられるのと、佳子さまが女性の地位の向上を願うとのコメントを発せられるのは、どこに違いがあるのでしょうか?
天皇陛下の福島復興コメントを政治的だと批判する人は誰もいません。佳子さまのジェンダー発言を取り上げて敢えて個別の政治議論に巻き込んでいるのは、そのメディア固有の虚構に過ぎず、如何に理不尽なことであるかは改めて言うまでもありません。
誰にとっての「ダメージ」なのか
皇室メンバーの言動を取り上げて、「皇室がダメージを受ける」として批判されることが良くありますが、具体的には何を批判しているのか、明確には理解ができません。恐らく、皇室メンバーの言動が国民の総意に基づいておらず、皇室への国民の愛着が薄れ、国民が皇室に対して批判的になる、ということを批判しているように思えます。
それでは、国民の皇室に対する愛着が薄れると、何がダメージなのでしょうか?
結局、それでは皇室を今後維持することができずに天皇制存続の議論につながってしまう、ということがダメージであるという意味と思われます。天皇制信奉者はそうした議論になることに危惧を抱き、皇室メンバーにはそうした批判がされない様に、静かにおとなしく生きていけ、ということなのかもしれません。
ただ、そうすることで防げるダメージは、誰にとってのダメージでしょうか?
それは、皇室という制度を続けたいと思っている国民のイメージ、あるいは虚構/ストーリーが毀損されてダメージを受けるという意味であると俯瞰できます。しかしその虚構は、皇室という制度を構成する欠かせないピースが、皇室メンバーというひとりの人格を持った人であるという認識が、恐ろしい程に欠落しています。
その虚構の先には、皇室という制度を存続させるためには、重要な構成員である皇族は、人としての人権は忘れて、ひたすらその制度を維持する為に生きて死んで行け、という恐ろしいものに見えてなりません。
自分のイメージ・虚構がダメージを受けない様に、皇族の人権はダメージを受けなさい、というとても看過できないものと思えるのです。
あるいは逆に天皇制に反対する勢力にとっては、皇室がダメージを受ける、と宣伝をすることで、皇室の存在の意味を毀損させてこうとしているとも読み取れます。
メディアで発信する人達がその背後でどんなストーリー/虚構を抱いてそのメッセージを出しているのかは、よく見極めていくようにしないといけません。
天皇制の議論をしたいのであれば、眞子さま、佳子さまなど個別の皇室メンバーの言動は直接には関係はありません。直接関係のないことを遠回しに自説の主張の為に利用しようとするのは極めて姑息な手段で、天皇制の議論がしたいのであれば、正面から政治の舞台に持ち込むべきではないでしょうか。
当方にとっては、眞子さまが小室さんと結構をしようとも、佳子さまがジェンダー平等を訴えようとも、何らダメージは受けていません。
むしろ、小さい頃から成長を国民で見守ってきた皇室の女性が、それぞれ成長して世の中に関わっていく姿を見るのは、感慨深いものがあります。
どこの馬の骨かわからん奴が何を言っているのかと思われるかもしれませんが、馬の骨でも国民です。国民にも色々な人がいて、色々なことを考えているのです。
『皇室』も『国家』『宗教』『貨幣』と同じ『虚構』
ひとつ思い出したいことがあります。それは、ユヴァル・ノア・ハラリ氏が著作『サピエンス全史』で述べている『虚構』のことです。
ここでハラリ氏が教えてくれるのは、人類が地球を支配することを可能にしたのは、発達した脳を使って言葉を操りながら『虚構/ストーリー』を構築し、集団で大規模にそれを信じて行動していく、という能力であることです。『国家』も『宗教』も『貨幣』も虚構にすぎないという話には目からウロコが落ちる思いです。
そうして考えてみると気が付くことがあります。それは、『天皇』も『皇室』も『万世一系』も、すべて虚構であるということです。すなわち、過去2000年の間、日本人が脳を使って言葉を操りながら、大規模に集団で構築して信じて行動して来たのか、『天皇』であり『皇室』です。
虚構である限り、人が頭で作って信じているだけのものです。『万世一系』がかけがえの無いものだ、というストーリーは、大規模な集団としての日本人が『総意』として信じて続けようと思ってきたから、現在まで続いているものと言えます。
ただ、言ってみれば所詮、虚構、ストーリーです。つくりものですから、作り変えても良いのです。
2000年続いてきた天皇制・皇室も、現在の人類社会に合ったものに変える必要性があれば、日本人の総意として変えて行けば良いものと言えます。
自らコントロールできない出自
天皇制・皇室が過去2000年の歴史を刻む日本の伝統であり、正に日本国民の象徴として今後も続いていくことを願うのであれば、時代に合わせてその在り方も変わって行かねばならない様に見えます。
現在の国際情勢の中での日本、現代日本社会における皇室とそれを報道するメディアの姿勢を俯瞰してみると、どうしても忘れてはならないと思える目線があります。それは、皇室にいる人も自ら望んで皇室に生まれたわけではないという事実をしっかりと見つめる目線です。
どこに生まれるか、誰を親として生まるか、という自らの出自については自分では選択できません。コントロールできないことによって、人として生きる基本的な人権が抑圧される様を見るのはとても不快なものです。
この不快感・嫌悪感は、誰の下に生まれるかはコントロールできない黒人が白人から差別を受けるのを見る時の不快感・嫌悪感と同じ構図であることに気が付きます。ひとつ違う点は、皇室が国民の税金でその身分と生活を保障されている特権階級であることと言えます。天皇制・皇室の議論をするときには、この点を慎重に扱わないと国民感情の琴線にストレートに触れてしまう大変デリケートな点と言えます。
ただ逆に言うと特権階級であるからこそ、人として生まれてきたら誰しも保障されるべき発言と行動の自由が著しく制限され、それに対して反論も何かコメントすることも許されない人生を強要されており、正に檻の中に捕らわれているのと変わらないものと見えます。
眞子さまの結婚、佳子さまのジェンダー発言などは、あるメディアは憲法を持ち出してその言動を政治に結び付けて批判的に語っていますが、これは眞子さま、佳子さまが反論できないことをいいことにメディアが本質論を避けて自説の主張にこじつけて利用している様に思えてなりません。皇室という特権階級と憲法の関係という本質的な議論をしたいのであれば、眞子さま、佳子さまとは関係なく、正面から政治の舞台にあげて議論をすべきものではないでしょうか。
皇族は失敗してはいけないのか
タレントのSNSによる攻撃や、学校でのSNSを使ったいじめなど、ネット社会における匿名の集団暴力で自ら命を絶つ人が無くならず、心が痛みます。
そんな社会問題がメディアで取り上げられ対応策が叫ばれている中で、タレントや学校でのいじめと似たような構図で、皇室の人がネットで叩かれているのは、明らかに放置されてはならないものと見えます。取り返しのつかないことが起こってからでは遅いと思えるのです。
失敗しても復活するチャンスがある社会でありたい、という話は政治の舞台、社会問題が語られる中で出て来る話題ですが、皇室についても同様に語るべきではないかと思います。。
人である限り、自分の人生は自律思考で自分で歩いて行きたいと誰もが思うはずで、皇室の人も同じでしょう。ただ自分が特権階級であること、その為の制限についてもどの程度納得するかは別にして理解はするでしょう。そういう中で、自分の人生を自分で可能な限り判断して選択しながら歩いて行くはずです。
人である限り、人を好きになったり、嫌いになったりします。親子喧嘩もするでしょうし、自分ではどうにもならない気持ちが心の中に湧き出て来ることもあります。うまくいかなかったり、失敗したりすることも当然あるでしょう。
ただ皇室の人は、例えばある失敗をしたとしたら、ガラス張りの現代社会では、メディアがその失敗を一斉に叩きます。皇室の人は国民に反論はできませんから、一方的に叩くメディアはなくなりません。まるでリンチの様な叩き方です。小室さんと結婚しようとしている眞子さまは、正にこの状態にある様に見えます。
ただ、皇室の人は失敗してはいけないのでしょうか?
誰かと結婚した時にそれが成功か、失敗かは、本来本人に起因する話で、本人の自己責任、自業自得のはずです。親、親族に賛成されておらず、結婚相手が親族に挨拶もさせてもらえない、これを失敗と見るか、それでも前に進んだことを成功と捉えるかは、本来は結婚する当事者の自己責任と言えます。
ただ、一部のメディア・ネット民はひたすらリンチの様にたたき続けることをやめません。斯様なネット被害を減らす社会的な取り組みは、皇室も例外ではなく、皇族も一人の人格を持った人であることを前提にしっかりとした対策が望まれます。
自分の人生は、失敗しても再び歩き出せる。それは、どこの馬の骨かわからない普通の国民でも、皇族でも、一人の人間である限りみな同じであるべきと思えてならないのです。
それでは。