=(8)日本人の未来を拓く『日本の伝統』とは=
<目次> ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ・選択的夫婦別氏制度の議論 ・選択することを拒む理由 ・人によって違う『家族』のストーリー ・『日本の伝統』を大事にする意味 ・差別と表裏一体の虚構 ・日本人の未来を拓く日本の伝統とは ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
こんにちは。柳原孝太郎です。
選択的夫婦別氏制度の議論
『選択的夫婦別氏制度』(いわゆる選択的夫婦別姓制度)の議論をメディア・ネットで注目して見ています。『選択的』というのは文字通り選択することができるという意味であり、別姓を選択したくない人は今まで通りの同性すればよいだけなのに、なぜここまで長きにわたって認められずに議論が続いているのか不思議でした。なんとなく背後にある『虚構』の影響が感じられ、どうしてなんだろうとネットを叩いて色々見ているうちに、へぇ~、と思う様になりました。そう、ここにもやはり、『虚構/ストーリー』のなせる人間の脳の働きが深く影響を与えている様に思うのです。
選択することを拒む理由
議論自体はメディア・ネットで様々な情報が出ていますので読者各位はそちらを参考にしていただくことにして、選択するだけなのでいいじゃないかと思っている当方は、なぜ『選択』することを拒むのだろう、という観点でネットを叩いて見て出てきた主張を拾ってみたところ以下の通りです。
「日本の伝統を失う」 「日本の伝統的な文化を壊す」 「日本の伝統的な家族が死ぬ」 「伝統的な家族観が壊される」 「家族の絆が壊れる」 「家族の一体感を危うくする」 「子供に悪影響が及ぶ」 「日本の家族が壊れる」 「国の将来に大きな禍根を残す」 「子供の心に取り返しのつかない傷を与える」 「両親の姓が異なるのは子供がかわいそう」 「日本の社会の安定を維持してきた戸籍制度が壊れる」 「旧姓の通称使用を進めれば問題ない」
等々。これらをまとめると、キーワードは、『伝統』『家族』『子供』『戸籍』というところでしょうか。これらのキーワードのことが心配で、『他人の選択を拒否する』ストーリーを信じる集団がいるということです(ここではその集団を『反対論者』と書きます)。この集団が何をどう考えているのかBEVしてみたところ、当方はやはり強い違和感、偏った虚構の存在を感じる様になりました。
人によって違う『家族』のストーリー
『家族』って何?と聞かれて、あなたはどう答えますか?
そう聞かれたら、誰でも最初に思い出すのは、自分の両親、兄弟、親戚、つまり自分自身の家族です。自分が物心ついた時からいつも自分と一緒にいて、愛情を注いてくれ、時に叱って道を正してくれる両親。またいつも横にいて、友達にいじめられて家に帰って来た時も慰めて安心を与えてくれる兄弟。たまに実家に帰ると、心からのあふれる笑顔で出迎えてくれるおじいちゃん、おばあちゃん。はたまた、そんな美しい家族像、きれいごととは程遠く、つらく悲しく残念な記憶しか思い浮かばない家族のストーリーもあるのかもしれません。それこそ人それぞれなのだろうと思います。
それを、『伝統的な家族』として、家族の形を自分たちが思う形に押し込めようとしている集団が、反対論者なのであろうと思います。
ただ果たして、日々生きている中で、自分の家族が『伝統的な家族』か否かと、意識して生活している人はいるでしょうか。
一方、あなたは友達の家族、隣人の家族について、どう思いますか?
どう思うかと聞かれても、う~ん、友達の話を聞いている限りは楽しそうな家に聞こえるけど、実際のことは知らないし。はたまた、母親が井戸端会議で仕入れてきた噂によると、○○君の家、実は両親が離婚調停に入っているそう、○○君は学校では楽しそうにふつうにしているのに、心中は大変なんだろうな、かわいそうだな、うん、だけど噂話なので何が本当かわからないし。
などなど、垣間見える表面的な情報以外は、実際のところは、外部の人達はわかりません。その家の家族一人一人がどう思っているのかも第三者にはわかりません。『他人の家族』なので。
ということを考えてみると、『家族』とは何か、というと、あなたにとっての家族は、『自分の家族』であって、『他人の家族』ではありません。
では、『伝統的な家族』とは何でしょうか?読者各位の思いもあるでしょうし、ネットを叩くと色々出てきますのでここでは書きませんが、ひとつだけ馬の骨でも確実に言えるのは、『自分の家族』や『他人の家族』が『伝統的な家族』かどうかは、人によって考え方、ストーリーは違う、ということです。もしかすると、あなたとあなたの兄弟では、同じ家族の一員としても、『自分の家族』の幸せとは何か、あるいは、『伝統的な家族』とは何か、『自分の家族』が『伝統的な家族』であることがあなたの幸せなのか、についての意見が違うかもしれません。
『家族』の意味が人によって違う以上、『伝統的な家族が壊れるのが困る』と反対論者が言うことは、他人にとっては『自分の家族』の話ではなく、『反対論者の家族』の話としてしか聞こえません。
「うちの家族は壊れないので心配ご無用。自分の家族を心配したらどうですか」
という話です。
結局、反対論者のストーリーは、
「他人が考える家族観はどうでもいいが、自分が信奉する『伝統的な家族観』というストーリーを他人も全員信じていなければならない」
という虚構に見えます。そこには、他の人に強引に自説を信じさせたい、新興宗教的な偏ったマインドコントロールの存在が感じられます。
『日本の伝統』を大事にする意味
『日本の伝統』は、当方にとってもとても大事な価値観です。せっかく日本人に生まれてきて、過去の歴史で世界にふたつとない独自の文化圏を形成した日本という国に住んでいるという誇りがあり、これは大切にしたいと思っています。
一方で最近の多様化、国際化の中では、当方の様な日本の伝統・日本の文化に強い親近感をもつ人ばかりではなく、別の価値観を持つ人たちも同じ日本に住んでいるのは事実です。
その人達が、日本の伝統を大事に思う人になんら影響を与えないところで、独自の価値観から独自の選択するのは、その人達の権利、自由であろうと思っています。当方には当方のストーリーがあるし、他の人には他の人のストーリーがあります。当方が信じるものを妨害されない限り、他の人が別のストーリーを信じるのはその人の自由であろうと思います。
そういう意味では、反対論者が『日本の伝統を失う』と言って、『他の人』が夫婦別姓の選択をするのを拒むのは、理解できません。他の人が別の選択をしたからと言って、当方の様な自分なりの『日本の伝統』を大事にしたいと思って行動していく人がいる限り、日本の伝統は失われないと思うからです。
反対論者が夫婦別姓選択を頑なに拒否する姿勢は、他人の自律思考を否定し、自分の信じるもの以外を頭ごなしに拒否する新興宗教的な虚構、マインドコントロールされた人が他人をもマインドコントロールして支配しようとする、人を不幸にするストーリーの恐ろしさを禁じ得ません。
『日本の伝統』は、ある特定の集団のストーリーに限るものではありません。人それぞれに考え方があり、信じたいストーリーがあります。それぞれの形があって良いのです。
反対論者が壊れると言って心配している『日本の伝統』は、当方が信じる『日本の伝統』とは違うストーリーです。
当方が信じる『日本の伝統』の中には、父親と母親が別の姓であっても、親と他人を思いやる日本的な価値観を共有する子供がすくすくと心身ともに健康に育って日本の伝統的な社会を支えていく、そういう環境が含まれています。
差別と表裏一体の虚構
反対論者の主張の中には『子供』をキーワードにした理由が出てきます。
「子供に悪影響が及ぶ」 「子供の心に取り返しのつかない傷を与える」 「両親の姓が異なるのは子供がかわいそう」
これらの反対論者の主張、子供の為に夫婦別姓は良くない、という主張をBEVしてみたところ、正直、当方は背筋の寒くなる、恐ろしいものが見えてしまった思いがしています。
上述した通り、家族が幸せか、子供が幸せか、については人それぞれだというのが当方の考えです。それにも関わらず、反対論者が『子供が不幸になる』と言っている意味がわかりませんでしたが、なぜだろうと考えていた時、ふと、『見えない線』の存在に気が付きました。(『虚構が描く見えない線』については、当方ブログ(4)(↓)参照)
反対論者は明らかに見えない線を引いて、夫婦別姓の人とその子供たちなど、自分たちが思う『伝統的な家族』に含まれないものを、その見えない線の向こう側のものとして自分たちと区別する、差別的な思想が非常に強いことに気づいたのです。
「子供に悪影響が及ぶ」が意味するのは、線の向こうの子供たちは自分たちと違うことにより悪影響が及ぶことが発生する可能性を指摘しています。ただ、親が愛情あふれ子供が幸せな夫婦別姓の家庭では家族内で悪影響が発生する可能性はありませんので、悪影響が発生する原因は外部、第三者からしかありません。見えない線のこちら側、つまり第三者である反対論者である自分たち自身が、その家族に悪影響を与える可能性を示唆しています。つまり、自分たちが差別の加害者になる可能性を自ら示しているということです。
「子供の心に取り返しのつかない傷を与える」のは、線の向こうの子供たちは自分たちと違うことにより傷を与えられる可能性を指摘しており、上記と同じ様に、結局反対論者自らが、夫婦別姓の子供たちを傷つける可能性を指摘しています。
「両親の姓が異なるのは子供がかわいそう」も同様、親子で幸せいっぱいの夫婦別姓の家庭は、家庭内では子供は幸せなのでかわいそうな目にあいません。かわいそうな目に合うのは、家庭の外部から、夫婦別姓を理由にこどもをかわいそうな目に合わせる人達がいるから、つまり、反対論者自身が夫婦別姓の子供たちがかわいそうだと思われるようなことをするからです。
結局、伝統、家族、子供をキーワードとしてきれいな表向きを整えようとしてはいるものの、その内実は、自分たちのストーリーと違うストーリーを信じる人達を頭ごなしに否定して差別しているのが、反対論者が捕らわれている虚構の様に見えます。
日本人の未来を拓く日本の伝統とは
夫婦同姓は、日本の伝統でしょうか。確かに過去の日本の歴史を見るとその通りと思いますが、上述した通り、現在と将来を見据えて日本の伝統を維持することを考える場合、父親と母親が別の姓でも家族と他人を思いやり日本的な価値観を持った家庭は当たり前のように存在すると当方は思います。
また、同姓の家であっても、家庭崩壊して日本の伝統はおろか、最低限の親子の信頼関係すら維持できない家庭もあることが現在社会問題になっています。日本の伝統的な家族と人を思いやる心を育むのは、親の姓が同姓か別姓かには全く関係ないというのが当方が感じることです。また日本の伝統と言いますが、Family Nameという言葉があることからもわかる様に、それは決して日本だけのものではありません。海外ではファミリーネームはあるが別姓も選択ができるようにして人の価値観の多様化に対応するなどしており、日本の様な画一的な価値観を押し付ける国の制度が残っているのは、かなり時代後れと言わざるを得ません。
日本の伝統とは、日本人が過去の歴史で積み上げてきた文化が醸し出す日本固有の価値観と思いますが、日本はこれからも長く続いていく国であってほしいと願う馬の骨としては、日本の伝統は将来の日本人にも引き継いで行って欲しいものです。しっかりと引き継がれていくためには、日本の伝統が昔も今も、そしてこれからも、人を幸せにするものでなければなりません。
日本人の未来は、今現在を生きる人と、その子供たち、そのまた子孫が引き継いでいくものです。これから将来に渡り長い時間をかけて社会環境も変わるし、人の考え方も変わっていきます。今を生きる人だけでなく、将来生まれてくる日本人にとっても、日本の伝統が人を幸せにするものであり続けるには、将来変わっていくであろう日本人の社会環境と考え方を柔軟に受け止める包容力が必要であろうと思います。
夫婦は同姓でなければ社会が壊れると考える反対論者もいれば、夫婦が別姓でも維持できる素晴らしい日本の伝統があると考える人もいる、そんな多様な人の価値観をすべて受け入れる包容力のある日本の伝統が、未来の日本人にも受け入れられて長続きするのだと思います。日本人の未来は、そんな包容力のある日本の伝統が支えていくのではないでしょうか。
蛇足ながら、自民党の稲田朋美衆議院議員が『婚前氏続称制度案』というものを提唱して、メディアでも発言しています(↓)。
<ABEMA TIMES> 「“わきまえない女でありたい”とつぶやいたら、怒って口をきいてくれない方もいた」稲田朋美議員 https://times.abema.tv/news-article/8663341 2021.06.23
ファミリーネームを残して戸籍制度を維持しながら、法的に別姓を認めるもので、根強い反対論者が力を持つ自民党内で別姓を法的に認める形にする議論を動かす意味では良い方向であると見えます。ただ、当方は上記の記事で稲田議員と対談している橋本徹さんが主張している通りもっとシンプルに、DXで現状の戸籍制度をマイナンバー/個人戸籍制度に切り替えを進める方が、柔軟性と包容力のある社会に適しているのではと思っています。
『戸籍』については、こちらはこちらでネットを叩くと様々な主張が飛び交っています。背景には日本の伝統の悪弊、差別思想などが垣間見えますが、馬の骨には消化しきれないので、また今度ということにします。
ちなみに、当方個人的には結婚したら同性がいいのではないかと考える、どちらかというと古いタイプの馬の骨の一人であることは付け加えておきます。
そんな当方でもBEVして見える日本の社会では、色々な人が色々な価値観を持って生きているのがわかります。その人達が自律思考で考えて自律行動することは、他の人の人生を妨害しない限りは実現させてあげたいと思います。
自律思考して自律行動する人はできるだけ応援したい、馬の骨はそう思っています。
それでは。
1 thought on “他人の『選択』を拒むもの”
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