=(7)東京オリンピックをおとしめた虚構=
<目次> ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ・「トキオッ~」で始まった東京オリンピックストーリー ・ステークホルダーで違うオリンピックストーリー ・『総合的判断』という『動くゴール』 ・あぶり出される『利権としてのオリンピック』 ・東京オリンピックをおとしめた虚構 ・ストーリーを書き換えるのは『誇りと自覚』 ・馬の骨でもできること、投票する! ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
こんにちは。柳原孝太郎です。
東京オリンピックまで20日を切りました。新型コロナウィルス対策のワクチン接種で世界に出遅れた日本は、インド型の新たな変異種『デルタ』『デルタプラス』の登場で再びじりじり感染拡大の兆候がある中で、開催されることが決定されているオリンピックが果たしてどういう形で開催されるのか、オリンピック期間中の日本と参加国の新型コロナウィルスの状況はどうなのか、不透明感が漂います。期間中に何かが起こるのではないかという不安から、いまだに国民世論はオリンピックに批判的なものが無くなりません。
そんな日本の国民世論はお構いなしに、オリンピックというストーリーはどんどん前進しています。マスコミの論調も、コロナ下でオリンピックを強引に有観客で進める日本政府とオリンピック関係者を批判するものと並行して、続々と最終選考会を経てオリンピックに出場が決まる選手たちの顔ぶれがテレビをにぎやかにしており、今までコロナ下でのオリンピック開催に対して反対の論調をあれだけ報道してきたマスコミがまさか手のひら返しでオリンピックを放送して応援するのか、というマスコミの報道姿勢に対する批判も出てきています。マスコミは何の目的で誰に対してどういう情報をながしているのか。こんなカオスな状況は、中々お目にかかれません。
こんな最近のメディアの報道を見ていると、当方は正直、こんなはずではなかったのにと、とても残念で、悲しい気持ちになります。
本来、自分が生きている間に二度とは来ないであろう日本でのオリンピック開催を迎えるという状況は、日本国民が一体となれるまたとない貴重な体験となるはずでした。当方も申し込んだチケットは残念ながらすべて外れてしまいましたが、開催を心待ちにしていた一人でした。ただ現状では、オリンピックと聞いても日本国民は手放しで喜べない、複雑な感情を抱くものに成り下がってしまいました。新型コロナ感染症の中でも日本国民の心をつかむ『コロナ下でのオリンピック』というストーリーを描く方法はなかったのでしょうか?
「トキオッ~」で始まった東京オリンピックストーリー
2013年9月7日(ブエノスアイレス時間)、「トキオッ~」という発表の後、ガッツポーズをする太田雄貴さん(フェンシング)、ピョンピョンジャンプして手を叩く滝川クリステルさんなど、抱き合って喜びを爆発させる日本メンバーたち。
IOC総会で東京オリンピック開催が決まった時の映像の記憶が、遠い昔の様に懐かしく思い出されます。
そうして始まった、東京オリンピックというストーリーは、途中、新国立競技場建設問題、エンブレム問題など、様々な問題を乗り越えてようやく開催にこぎつけられると思った2019年末、予期していなかった新型コロナウィルスに直面しました。
2020年3月24日にIOCと東京五輪組織委員会、東京都、日本政府が感染拡大を受けてオリンピックの延期を決めてから、オリンピックという、本来ならば世界の人々に夢と希望と勇気を与えるストーリーは、残念ながら迷走を始めることになりました。
ステークホルダーで違うオリンピックストーリー
オリンピックの利権問題、商業五輪に対する批判は今に始まったことではありません。実態としてのオリンピックは、丸川五輪担当大臣のコメントにも出てきた『ステークホルダー』、あるいは巨額の放映権料を払う米国NBCはじめスポンサー企業によって支えられていることは周知の事実です。
我々日本を含む自由主義・民主主義陣営の国家は、民間企業・民間資本に社会が支えられており、オリンピックも例外ではなく、支援する民間企業・民間資本があるからこそ、選手アスリートも競技に自分の人生をかけて打ち込めるし、4年に一度のアスリートの集大成としてのオリンピックで発信される感動を、日本国民が、世界中の人々が体験できます。
オリンピックで感動を与えてくれる選手アスリート、及びIOC/JOC初めオリンピック関係組織の陰には、その活動を支援するスポンサーの存在があります。普段は表には出ないものの、そこは資本主義の真っ只中、ビジネスフィールドです。お金によって、できること、できないことが左右される弱肉強食のビジネスの最前線と言えます。ただ、一つ言えるのは、スポンサーがいなければ、オリンピックを開催することは不可能という現実があります。
オリンピックのステークホルダーは5者、5つのストーリーがあるのだと当方は思っています。5者とは、①選手・アスリート、②IOC/JOC等オリンピック組織関係者、③開催都市・開催国(行政府)、④スポンサー、⑤一般国民(観客・視聴者)。
有事ではない普通の社会生活が送れる状態で『オリンピックが成功する』と、5者全てのステークホルダーは、それぞれのストーリーが実現するので、WIN-WIN、5者全部WINというハッピーエンドが望めます。
ただ、有事の場合は、事情が変わります。有事の場合の『成功するオリンピック』というストーリーが、ステークホルダーによって、違うものになるからです。
②④は、オリンピックは『ビジネス』ですので、収益を最大化する、あるいは自らの集団の理念を実現する(IOCにとってのオリンピック憲章の理念等)ようなストーリーを望みます。収益を最大化する、あるいは理念を実現するには、当然、観客は必要ですし、聖火リレーはやりたいですし、イベントもやりますし、酒類販売含めたスポンサー利益のための商売も必要なので、②④の集団としてのストーリーはそれら『通常開催』にできるだけ近い、付帯する商業活動を最大限実現する形を求めてきます。自由主義の下でのビジネスなので収益の最大化は当然の権利として②④は動いてきます。
①は、自らの競技活動を支援してくれるスポンサーが維持できていさえすれば、後は非常にシンプルなストーリー、つまり、「オリンピックに出場して、最高の成績を上げる」です。
観客がいた方が力が出るなどの報道もありましたが、これは所詮サイドイッシューで、観客がいようがいまいが、聖火リレーをやろうがやるまいが、観客席で酒を売ろうが売るまいが、開会式をやろうがやるまいが、関係ありません。①選手アスリートが追い求めるのはただひとつだけ、オリンピックに参加して良い成績をだす、それだけです。それさえ実現できれば、自分が人生をかけているストーリーで自己実現できる、名誉を得られる、国民に喜んでもらえる、国によっては一生困らずに生きて行けるだけの経済的保証を得られる(そういう意味ではビジネスです)、ということになります。オリンピックを開催することで自分のストーリーが実現することは②④と同じですが、競技が実施されて自分が参加できればよく、付帯する商業活動などの開催方法については、基本的には影響は受けません。
通常時と有事で一番ストーリーが変わるのは、③と⑤になります。
新型コロナ感染症という緊急事態が発生しており、オリンピックとは関係のない国民生活、国民の命が関わる問題が発生している中では、オリンピックの優先順位は、当然下がります。⑤国民の命をあずかる③政府は、当然国民の命、国民の安心・安全を最優先に、新型コロナ感染症の対策を打ちながら、国民の為のオリンピックのストーリーを書き換えていくものと、当方は思っていました。
ただ、一年間の開催延期が決まってから現在に至るまでの一年強、当方が思っていたのとは全く異なる、別のストーリーが展開されていくことになりました。
『総合的判断』という『動くゴール』
新型コロナウィルスという人類にとって初めての感染症によるパンデミックですから、ウィルス感染の全体像もすぐには把握できませ。ウィルスである限り感染拡大の中で変異を繰り返していくことから、いつどのような対策をうてるという確証など何もなく、見通しが全く立たない状況です。そういう状況の中で一年間延期されたオリンピック。一年後に感染症がどうなっているのかを予測するのは極めて困難ではあるものの、一年間という期間が決まっている中では、具体的な感染予測に基づく感染対策(ワクチン対応含む)、それに応じたオリンピック開催方法案が検討されていくものと思っていました。
その中で、あるタイミングから政府は、『総合的判断』という言葉を使うようになりました。
時系列は定かではありませんが、おそらくこの単語が最初につかわれたのは、緊急事態宣言を出すか出さないかの判断、また宣言解除をするかしないかの判断、それらの判断基準の説明を求められたときではなかったかと思います。その後、オリンピックを開催するか、中止するか、再延期するか、開催する時はどういう条件か、の判断を求められた際にも、政府は『総合的判断』ということばで説明をする様になりました。
その後、現在に至る経緯はここでは詳述は省きますが、結果的には、政府は最初から『IOC方針を追従する形で有観客を含む商業活動を最大限実現する開催で押し切る』というストーリーを単に追いかけていただけの様に見える状況になっています。
何かを判断する基準を聞かれたとき、『総合的判断』であると答える、ということは、どういうことでしょうか。
BEVして見える政府の本音は、『結論ありきで、説明は状況に応じて後付けで作文する』ということです。つまり、総合的判断とは、『動くゴール』です。点が入るという結論は動かせないので、必ず点が入る様にボールが来たところにゴールを動かせる状態にしておく、というやり方です。
『動くゴール』は、どこかで聞いたことがあります。そう、日本政府が外交舞台で韓国政府に対して「ゴールが動かされた」と言って抗議をすることがありました。
なんのことはない、日本政府は二枚舌で、外交舞台では他国に対して「ゴールは動かすな」と言っておきながら、国民に対しては『動くゴール』である『総合的判断』という説明で丸め込もうとしています。
あぶり出される『利権としてのオリンピック』
日本政府はなぜ、動くゴールで国民を丸め込もうとしてきたのでしょうか。それは、日本政府の『新型コロナ下でのオリンピック』のストーリーが、②④のビジネス利権を最優先事項として取り組んでいるからに見えます。⑤国民よりも②③の利権を優先する、ということです。
全てのステークホルダーの利害を調整して全体最適のストーリーを主導できるのは、日本政府しかいません。にもかかわらず、日本政府は⑤に対しては動くゴールでごまかし、反対する国民を丸め込んで、なし崩し的に②④のストーリーを後押ししています。
ここにきてマスコミも騒ぎだしている通り、政府が②④の『有観客での開催』の結論ありきで動いているのが、国民にばればれになり、ただでさえ新型コロナ下でのオリンピックに不安を感じている国民感情を逆なでしている状況で、オリンピックに対するしらけムードは修復不可能になっているように見えます。
こんな政府の姿をBEVしていて思い出したのは、『国民全体の奉仕者』『権力への忠誠心』という視点です。これは、当方が前のブログ記事『(6)「国民全体の奉仕者」というストーリー』で財務省について書いた視点ですが(↓)、政府・国会議員も国家公務員には違いありません。そこには、国民全体の奉仕者としての誇りと自覚はみじんも感じられず、IOCという国際利権・権力者に対して、忖度して意見すら言えない、権力亡者の姿が浮かびあがります。
東京オリンピックをおとしめた虚構
開催の是非を問われて、日本政府には開催可否を決める権限はない、という菅首相・政府の説明がありましたが、納得感はありません。
2020オリンピックは東京都と日本政府が手を挙げて、来てくれ、と言って誘致をしたので、世界のアスリート・オリンピック関係者に対して、誘致した責任はあります。
一方で、現在は100年に一度の世界的な感染症パンデミックという『有事』です。
開催国である日本での感染症の状況は、国民及びオリンピックに参加する海外のアスリート・関係者の命を預かる『国民全体の奉仕者』としての責任、『誇りと自覚』があれば、有事の中でのストーリーの書き換えを開催国として求めることはできるはずです。いえ、できるという言い方ではなく、やらねばならない、それが国民全体の奉仕者としての責任です。それができるのは、日本政府しかいません。
『コロナ下でのオリンピック』というストーリーへの書き換えは、中止の条件を決めること、および開催可能な場合、通常開催で行われることをどこまで削るか、という検討になります。
しかし、開催可能な場合の開催方法はおろか、一番決めなければならない中止の条件すら検討されることはありませんでした。
結果的に日本政府がやってきたことは、書き換えではなく、『総合的判断』という名の結論ありきでの②④のストーリ-の強行突破です。国民には強行突破であることは言わずに、『総合的判断』ということで丸め込んで、行けたら行くし、世論が騒いでどうしようもなければ、仕方なくほんのちょっとだけ、譲歩してやるべきことを削る、というやり方です。スタート地点が②④のストーリー100%実行のところから始まっています。
これでは、⑤開催国の日本国民が『安心・安全』を感じられるわけがありません。国民感情はどうでもいい、というやり方をしているので、当たり前です。
IOCが開催の権限があるため、日本政府・東京都から開催方法の書き換えをした時の損害賠償の話がでています。マスコミでは色々言う人がいて、契約内容の実態はわかりませんが、お金を理由に国民の命の危険を増す方向に動くのは、国民は誰も理解できません。50年に一回の自国開催オリンピックが100年に一回のパンデミックと重なってしまったという、極めて特殊な状況、『有事』です。『有事』なのだから、止むを得ない財政投入も含めたストーリーの書き換えは、日本政府の当事者責任として具体的に検討されるべきものと思えます。
国民の命を優先する為に財政投入は最悪覚悟はした上で、IOCには最悪の場合の中止の条件、および最低限の開催レベル、つまり完全無観客を申し入れることは可能なストーリーです。
ただ残念ながら、新型コロナでストーリーの書き換えを求められた政府が実行したのは、日本の国民感情をオリンピックから引きはがして『東京オリンピックを貶める』ストーリーでした。
もし政府がIOCに忖度して対応を更に誤り感染拡大を引き起こして人命が失われる場合、政府はどのような責任をとるのでしょうか。最悪のストーリーをどのように描いているのか全く見えないことが、益々国民を不安にさせています。
ストーリーを書き換えるのは『誇りと自覚』
上記ブログ(6)で書きましたが、日本政府に『国民全体の奉仕者』としての『誇りと自覚』があるのであれば、全てのステークホルダーのことを考えつつ、全てのステークホルダーに有事の痛みを分担してもらいながら『コロナ下で開催するオリンピック』というストーリーが書けたはずです。
⑤国民を無視して、②④側・利権側に過度に偏りすぎている対応ではなく、②④も⑤も、更には現在の国民感情が離れていることで一番かわいそうな思いをしている①アスリートのことも考えたストーリーは、どこから開始すべきでしょうか。
それは、まず、①アスリートファーストで考える、ということではなかったでしょうか。
それは、中止の条件は決めた上で、中止だけは避けられる場合、最低限開催だけは確保することを最優先にするというストーリー、つまり、(中止しなくても良い感染状況での)コロナ下でも可能な形で必ず開催する、ということをスタート地点にする。
そのスタート地点は、完全無観客ではないでしょうか。海外マスコミ・海外IOC関係者の入国禁止。海外メディアの取材も日本の協力者経由のテレワーク。海外メディアの自国選手へのインタビューもテレビ会議。チケットもすべて払い戻し。聖火リレーなどイベントも無し。そういう、アスリートの為に最低限競技の実施だけは確保するストーリーをスタート地点にする。
その上で、あとは状況に応じて、開催条件を緩和・追加していく。感染状況・ワクチン対応などの改善の程度により、徐々に観客を入れる、徐々に海外IOC関係者・海外マスコミの入国を認める、という段階的な積み上げ方式のシナリオ。
これは、現在政府がやっている完全開催の強行突破を前提に状況次第で段階的に削減を小出しに拡大していく発想とは180度逆の発想をするものです。
この最低レベルから始める積み上げ方式シナリオでスタートする限りは、中止以外は、その後のシナリオ修正は上振れ・好転の書き換えしかありません。唯一の下振れは、中止のシナリオ。オリンピック開催時期の世界的な感染再爆発、それこそ、オリンピックどころではない、という日本・世界情勢になれば、中止するのは仕方がありません。中止以外は、開催はする、その上で感染状況・感染対策に応じて開催条件を好転させる方向で動きます。50年に一度の日本でのオリンピックと、100年に一度の世界的な感染症パンデミックが偶然ぶつかってしまったのだから、本来なら中止、という状況だったものが、開催だけでもできたら儲けもの、という考え方からスタートすることにする。
ダメだったものがOKになると、人は前向きになるものです。最低レベルでスタートして、状況に応じて、無観客だったものを屋外競技場に限りMAX XX %で観客を入れる、更に状況改善したのでXX%まで上げる、屋内も入れる、と段階的に積み上げで開催条件を緩めていけば、国民感情としても前向きで受け止めます。
何より一番良いのは、まさにコロナに打ち勝った(過程にある)シナリオを全世界に発信できたことです。コロナで中止を覚悟したが中止は回避し、更に観客ゼロを覚悟したがこれも対策を打ったおかげで限定的な有観客に好転できた、一歩ずつコロナを乗り切る道を力強く前進している、との前向きなメッセージを出してアピールできたのでは、と思います。
残念ながら現在は、有観客で押し切ろうとしていたところでの感染再拡大の兆候が出始めて観客の削減更には無観客に向けてチケットの払い戻しの話が具体的に始まっている状況です。これは、チケットを確保して参加を期待していた人の中で、オリンピック開催直前に期待を裏切られて行けなくなる人がでて来るということです。どれだけオリンピックに対する思いが盛り下がるでしょうか。
延期をした一年前に、いったん全部キャンセルして、直前の今の段階で観客少し入れられるようになったので、元々チケット持っていた人の中で再抽選、という好転させるパターンにしたら、元々一年前にキャンセルされてあきらめていたものが開催直前に復活した人達は、どれだけ盛り上がってオリンピックを応援する気持ちになるでしょうか。
自分の生きているうちに二度と来ないであろう日本でのオリンピックは、政府の権力に忖度した後手後手の対応で、それこそ台無しにされてしまいました。
20年3月24日の延期の時から、国民もステークホルダーであると認めて国民の命と気持ちに配慮したシナリオは書くことができたと当方は思います。しかし、日本政府は、国民に寄り添うことはせず、利権に寄り添い、開催国が日本で良かったと日本人全員が思えるオリンピックの実現は困難な状況になってしまいました。
時既に遅しの感は強いですが、今からでも、橋本徹さんがテレビで主張されていた『スーパーポピュリズム』で国民感情に寄り添った動きが出て来ないものか、など密かに思っています。オリンピック貴族の入国を禁止し、海外メディアも入国禁止で取材もテレワークとするなど、開催国として権力者IOCに対峙して国民の為に意地を見せる動き方ができれば、国民側も10年先、20年先に2021年を振り返ったとき、コロナですったもんだしたけど、結局日本でやってよかった、と思えるオリンピックになるのではないか、など往生際が悪いですがわずかな希望は捨てていません。
馬の骨でもできること、投票する!
当方は申し込んだチケットは全部外れて取れませんでしたが、東京オリンピックを心待ちにしていた馬の骨の一人です。
それがこんな状況になってしまいました。残念で仕方ありません。
そんな当方に、何ができるでしょうか。
オリンピックの後、衆議院選挙になります。政府自民党はオリンピックが始まってしまえば支持率があがると思っている、というような記事も見受けられますが、とんでもありません。少なくとも当方は、一生に一度のオリンピックを台無しにされたことは決して忘れません。
当方にできることは、投票する! たかが一票ですが、貴重な一票です。次の衆議院選挙は渾身の一票を投じたいと思います。
それでは。
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