=(4)BEVして見える自分の居場所=
<目次> ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ・社会に溢れる虚構が人を不幸にしている ・必ず見つかる別のストーリー ・虚構が描く見えない線 ・BEVして見える自分の居場所 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
こんにちは。柳原孝太郎です。
社会に溢れる虚構が人を不幸にしている
自殺の報道が後を絶ちません。親族・友人の心情を察するに、言葉もありません。それぞれ個別の背景・事情もあるでしょうが、自分で自分の人生を終わりにする最後の一歩を踏み出す前に、何とかその思いを断ち切って、考えを変えさせることができなかったものか、と切に思います。
一方、人種差別に関する報道も最近は多くなっています。BLM、Asian Hateが社会問題になっている米国だけでなく、日本でも我々の身近な問題として取り上げられことが多くなりました。なぜ人は人種が違うことで他の人を差別するのでしょうか。何とかその差別する思いを断ち切って、考えを変えさせることはできないものか、と切に思います。
自殺、人種差別の他にも、この世の中には殺人、暴力、戦争、紛争、テロ、いじめ、詐欺など、無くなれば不幸になる人が減るのに、と思うことがたくさんあります。
これらの不幸な社会現象は、ハラリ氏の『虚構』の構図が大きな影響を与えていると思います。「何とかその(人を不幸にする)思いを断ち切って、考えを変えさせることはできないものか」、という観点で、自殺と人種差別の根底に共通して横たわる虚構の存在を見て見ます。
必ず見つかる別のストーリー
自殺された方の親族・友人の心情を察するに、自殺をテーマに何かを書くのは、勇気が必要です。自殺する人それぞれに、その人にしかわからないそれぞれ個別・固有の状況と心情があるだろうということです。第三者の一片の馬の骨がその個別事情も知らずに勝手に偉そうに言うな、というお叱りを受けるのを覚悟の上で、虚構という切り口で見て見ます。
自分で自分の人生を終了する、と考えて実行するには、その理由があると思います。
例えば、生きている上で耐えられない苦痛(肉体的・精神的)がありその苦痛から逃れたいがどうしても逃れられない、逃れられない苦痛を感じ続けて生きていくのは耐えられないので終わりにしよう。
例えば、自分がどうしても叶えたい望みがあるのに叶わない、叶わないのであれば生きている意味が全く感じられない、意味がないまま存在し続けるのは耐えられないので終わりにしよう。
例えば、取り返しのつかないことをしてしまった、いくら謝っても許されることではない、許されないことをしてしまった自分は生きている価値がないので終わりにしよう。
等々、様々な事情があるとは思います。ただ結局どれも、耐えられない精神的・肉体的な苦痛を感じており、その苦痛から逃れたいが、他に方法がない、ということなのではと思います。
物理的な暴力による肉体的な苦痛は、手段を選ばず即時に排除せねばならず、警察など公的・物理的な力に頼るのが一番早いと思いますが、今回はもうひとつの精神的苦痛について。
精神的苦痛とは、これまで書いてきている『虚構』が創り出しているものと思います。
例えば学校でいじめられているとき。
いじめは、加害者が被害者のある特定の個性を利用して身勝手なストーリーを頭の中で作り上げて、そのストーリーを他の複数の人が信じて協力して集団で行動(いじめ)しているという、虚構の構図そのままに見えます。まずいじめる人の頭の中の作り物を作り直す方法が検討されねばならないのは言うまでもありません。
一方、いじめられる人の立場で考えると、いじめられて精神的苦痛を感じるということは、いじめる人が勝手に作ったストーリーを、いじめられる人自身も信じて受け入れているという状態と言えます。ただ、それも所詮単なる作り物です。信じなければよいのです。
ひとりぼっちで集団に攻撃を受けいじめられている立場を想像してみろ、他人の身勝手な言動は無視すればよいなんて、そんな簡単に言うな、それができれば苦労はしない、できないから皆悩むのだ、と叱られてしまうかもしれません。その通りなのですが、ひとつの方法として、BEVをしてみたらどうでしょうか。
鳥になったつもりで上空に舞い上がり地上を眺めることをイメージします。上から眺めてみると、地上には、ポツンとたたずむいじめられる自分といじめる人たち。実はその周りにはそれ以外にも、様々な人たち、友達、先生、家族、親戚、近所のおじさん、いつも行くスーパーの店員さん、様々な人がいるのが見えます。地上には、自分といじめる人達だけではありません。それ以外にも色々な人がいて、色々なストーリーがあります。
世界は広いのです。広い世界のなかでは、自分もいじめる人達も、そのごく一部に過ぎません。他にも多くの人がいて、様々なストーリーがあるのです。そんな広い世界の片隅で、いじめている人達が言っていることは、なんて小さなストーリー、取るに足らないことなんだ、と思えることがないでしょうか。
例えば会社の仕事で悩んでいるとき。
会社は、ある目的(ストーリー)の為に雇用契約(ストーリー)にそって経営者/従業員が会社方針(ストーリー)を信じて協力して集団で行動している、という虚構/ストーリーの典型的な構図です。働く人がなぜ「その会社で働く」という虚構/ストーリーを信じて行動しているのかは、生活の糧を得る、自分の夢をかなえる、社会の一員であるとの責任感を満足させたい、などの人それぞれ固有の意図・事情はあると思います。ただ、所詮、会社の仕事も一定のルールの下での、ストーリーです。
従業員は自律思考でその会社で働くことを決めた限りは、会社ルールに沿って職務を全うする義務があります。ただ、別のストーリーが良いと思ったら、社会人としてのルールを守った上で、そのストーリーを追うのは止めて、別のストーリー(他の会社に行くなり独立するなり)に乗り換えてもかまわないのです。
会社のストーリーに沿って働いていると、自分のストーリーと衝突を起こして当然色々悩むことも出てきます。特に誠実で責任感が強く一生懸命な人であればあるほど、虚構によりマインドコントロール状態に落ち込むことになりがちです。例えば自分が組織なりプロジェクトなりミッションを任される場合、上司・部下・取引先に対する責任を担いますから、責任感の強い人は、自分で自分の虚構を強固に固めて、一心不乱にその虚構を実行・達成する姿勢をとるでしょう。その過程で自分のストーリーと違うストーリーに従わねばならないことから、様々な悩みを抱える場面が出てくるのだと思いますが、ただ、会社の存在自体がストーリですので、結果として出てくるものもストーリーです。自律思考で改めて会社のストーリーへの忠誠を心に誓い、自律思考で自分のストーリーを封印して会社のストーリーを全力で追いかける。あるいは、自律思考で会社のストーリーを追うのをやめる。ストーリーなのだから、信じる、信じないは、自分の自律思考で判断して決めたいものです。他人の(会社・組織の)虚構に乗った状態で、思い詰めてマインドコントロール状態になり自分のストーリーを見失い、自分の人生を終わりにする、というストーリーが、いかにも最悪で一番避けたいストーリーであることは、BEVすることで、必ず気が付くはずです。
ただ残念なことに、思いつめてマインドコントロール状態になり、目の前の虚構だけに集中しすぎてしまうと、他のストーリーでも構わないということを思い出す前に、最悪のストーリーへ最後の一歩を踏み出してしまうことが起きてしまいます。自分の人生を終わりにするという以外に自分の取るべき道がないストーリーなど、さっさと追いかけるのはやめてすぐに下りて、別のストーリーを自分で作ってしまえば良いのです。その為に、BEVして上空から自分を眺めてみるイメージが、とても大切であると思っています。
虚構が描く見えない線
人種差別も虚構の典型的なもののひとつに見えます。
悪い虚構は信じなければ良いとこれまで書いてきましたが、人種差別という虚構は、残念ながら、信じることを辞めない人が根強く残っている、非常にやっかいで悪質な虚構です。
なぜ人種差別をすることをやめないのでしょうか?当方は人種差別をする人の気持ちはわかりませんが、人種差別をする人から世の中がどう見えるのか、BEVして想像してみましょう。
上空から地上を見下ろして見ると、人種差別をする自分たち、自分たちが差別をしている対象の人達がいます。その周りには、他の人種の人達がそれこそたくさん存在しています。人種差別をする人たちからみると、おそらくその地上にいる人達は、人種毎に丸で囲まれて、線引きされて区別されて見えているのだと思います。
ただ、その線引きの線は、どういう意味があるのでしょうか?人種差別をする人達にとっては、その線引きは大きな意味があります。それはそうですね、人種差別をするということは人種の違いで間に線を引いて、区別しているのですから、線がないと区別ができず、差別ができません。その線をつかって、線のこっちは我々、線の向こうはあっちの人達、なのであっち側を差別しよう、と判断しています。
ひとつ、差別している人に聞いてみたいのは、あなたは、自分が線のこっち側にいるのは、いつどうやって認識しましたか?ということ。続けて、あなたは、なぜ線のこっち側にいるのですか?とも聞いてみたいです。
どうでしょう?差別する側に立って、答えることを想像して見てください。
答えられますか?
当方が想像できる答えは、気が付いたらこっち側にいた、なぜこっちにいるのかはわからない、偶然だ、それが運命だ、自分は神様の思し召しでこちら側にいるのだ、そんな感じでしょうか。
当方は、日本人です。今もこうして、日本に住んで、日本語を使って生活しています。いつ自分は日本人であることに気が付いたのかと思い出そうとしても、物心ついたばかりの幼子の頃の記憶は僅かにありますが、その時は自分が何者なのか、まったく認識していませんでした。日本のことも知らないし、人間のことも知らない、親が話しているので真似して自分も話すようになった言葉が日本語であること、それ以外にも言葉あるなど、何から何まで想像もできませんでした。
自分はなぜ日本人なのだろう、と考えて見ても、なぜかの説明は、当たり前ですが、できません。偶然であり、気が付いたら日本人になっている、ということです。
ということは、偶然なのだから、可能性としては、自分も場合によると、白人だったかもしれないし、黒人だったかもしれないし、チンパンジーだったかもしれません。
全世界の人、日本人も白人も黒人も何人でも、人間は自分が何人であるか、どういう人種として生まれてきたのか、については、偶然に過ぎません。気が付いたら「こっち側」にいる、ということです。自分が始めて鏡を見た時、鏡に映る自分の顔を見た時のことを、覚えているでしょうか。鏡に映る自分が自分である、というのは、偶然にすぎないのです。
人種差別をしている人達も、BEVして見える線引きの線の、こっち側に自分がいるのは、100%たまたま偶然、ということです。生まれたての幼子の時、自分が何人であるかの認識がある人はいません。自分は日本人になってやる、と意を決して生まれて来た人は一人もいません。
もし仮に、自分があっち側(差別される側)だったとしたら、自分で自分のことを差別して攻撃するのでしょうか?自分は差別されてもかまわないのでしょうか?
偶然にすぎないこっち側、あっち側と区別している線に、何か意味があるのでしょうか?
何も意味はありません。それは、単なる虚構、人の頭の中で作った作り物の線でしかありません。
こっち側なら好き、あっち側なら嫌い、そんな勝手な、場合によると自分も嫌われる方にいたかもしれないのに、今の自分から見える一方的な景色だけで都合のよい不合理な態度をとることを、おかしいとか、変だとか思わないのでしょうか。
自分の身勝手な虚構から実際には存在しない線を引いてあたかも線で区別されているかの如く信じて行動して、他人を貶めることで自分を持ち上げる、そういうマインドコントロールを自分にも他人にもまき散らしているのが、人種差別という虚構の姿です。
BEVして見える自分の居場所
以上、ここでは自殺と人種差別を取り上げましたが、虚構によるマインドコントロールが人を不幸にすることがあるのがよくわかります。
「その考え方はだめだ、間違いだ」といくら言っても、マインドコントロールされている人に自分を客観視させることなど、容易ではありません。
そういう時は、BEVして見る。
悩んで自分の人生を終わりにしようとしている人や、人種による見えない虚構の線を引いて人をあっち側、こっち側と分けて人種差別している人が、BEVをすることで、上空から見える自分の居場所を確認する。そして自分の周りにはたくさん助けてくれそうな人がいそうだとか、自分が見えない線のこっち側にいるのはただの偶然にすぎない、という様なことに気が付くことができれば、自分が踏み出そうとしていた一歩を踏みとどまり、歩みの向きを変え、自律思考で見つけた自分の為の新たなストーリーの方向に踏み出す。BEVすることが、そんな一歩を助けてくれることがあれば良いのに、などと考えています。
それでは。
2 thoughts on “『虚構』で捉える自殺と人種差別の共通性”
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